Nichiren Shoshu

Myoshinji Temple

臨終正念について

3月度御講原稿

かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり
(御書1482頁)
これは日蓮大聖人が、人の命の無常について述べられた『妙法尼御前御返事』の中の御文です。生きとし生けるもの、必ず死を迎える時が来ます。例外は一切ありません。しかし誰もが知っている厳然たる事実でありながら、このことに深い思いをいたす人は多くありません。
 日蓮大聖人は『佐渡御書』に、
世間に人の恐るゝ者は、火炎の中と刀剣の影と此の身の死するとなるべし
(御書578頁)
と仰せです。未だ経験したことがない死に対する恐怖は、あたかも底の見えない漆黒の暗闇に身を投じるようなものであります。一般的には、できることならば考えたくない忌むべきことかもしれません。中には死は必ず訪れるという事実からあえて目を背け、「どうせ一度きりの人生なのだから、自分の望むままに生きなければ損である」というふうに考える人達すらいるでしょう。そうした人達は、厳しい因果律を無視して貪瞋癡の三毒という煩悩の心を師として生活し、ついには不幸と後悔の内に臨終を迎えてしまうものです。
しかし、日蓮大聖人の正しい仏法においては、
過去の生死・現在の生死・未来の生死             (御書514頁)
と、三世にわたる生死が説かれています。たとえ肉体は滅しても、私達の生命は永遠不滅なのです。そして生前に身口意によって造作された行為もまた、業として残り来世に引き継がれていくのです。それは善悪の両方に通じます。現在の果は過去の因によるものであり、未来にもたらされる果は現在の因によるものです。肉体は消滅しても業は帳消しにはならないのです。
したがって死は今世の終わりであると同事に、来世における生の始まりであることを知らなければなりません。そしてそのことを理解したならば、眼・耳・鼻・舌・皮膚の五官を通した楽しみや、名聞名利の欲望に縛られた生活のみに明け暮れていてはいけないことが分かります。妙法を受持し、自他の成仏を願って仏道修行に勇猛精進してこそ、現世安穏・後生善処の大功徳を得て、真実に幸福な人生を歩むことができるのです。この自覚に立つべきことを日蓮大聖人は、冒頭引用の御文に続けて、
されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし       (御書1482頁)
とお教え下さっているのです。臨終の一念は私達の来世の境界に大きな影響を与えます。ゆえに私達は臨終に際して苦しみの報いを受けないよう、今何をすべきかをよくよく考えなければなりません。自分が望む心の状態での臨終を考えることは、取りも直さず、今どのような人生を歩むべきかを熟思し、それを実践することに他なりません。

刹那の臨終と多念の臨終
「臨終」とは、死がいよいよ差し迫った時から死の直前までの時間を意味する言葉です。この臨終に総本山第二十六世日寛上人は、「刹那の臨終」と「多念の臨終」があると御指南です。「刹那の臨終」とは、まさしく死に至る瞬間で最も重要な瞬間です。その死に際に至るまで、貪瞋癡の煩悩の念を起こさず、安心立命の心地で御本尊様と題目を心に忘れずに今生を終えることを「臨終正念」といいます。
日蓮大聖人は、
しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり
(御書1483頁)
とお教え下さっています。臨終を迎えるにあたり、正念に住して御本尊様を心に思い題目を唱えることができれば、無始の罪障は消滅して即身成仏は疑いないとの御金言です。
 しかし言うは易く行うは難し。臨終に当たり信を込めた題目を唱えるということは容易なことではありません。日々の弛まぬ信心修行の積み重ねがなくては、決して成しえません。日寛上人は、
臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依る也
(富要3-259頁)
と仰せです。一瞬一瞬、一日一日が、長いようで実は短い人生における大切な仏道修行の時間です。日常の生活の中にあって、「臨終只今にあり」という覚悟を持ち、後悔のないように勤行・唱題・折伏に勤めていくことを「多念の臨終」というのです。

臨終正念を妨げる三つの要因
 臨終は成仏を遂げるための重大かつ厳粛な時です。しかし臨終は心を乱し安楽な境界を得ることを妨げる様々な要因が競う時でもあります。日寛上人はその要因として以下の三点を挙げておられます。

  1. 断末魔の苦しみ
  2. 魔の所為
  3. 妻子従類の嘆きの声、財宝等への執着

まず断末魔の苦しみとは、骨と肉が離れるような激痛です。その痛みは千本の鋭利な刃物で身を刺すような痛みと譬えられています。これを防ぐためには普段から善業を積むことを心がけ、実にもあれ不実にもあれ他人を誹り傷つけることを常に慎むことが大切です。もしも当人が痛み苦しんでいる時は、不用意に触れてはならないとも御指南です。それは指で触れられるだけでも岩石を投げつけられたかのような痛みを感じるからです。
 次に魔の所為とは、臨終正念させまいと正法の行者に現れる三障四魔の働きです。臨終に際して貪りや瞋恚の煩悩の命が現れたり、家族や親族などの身に入って感情的な行動をとらせ、それによって心が乱されたりと、様々な造形をとって悪道に引きいれようとします。如説修行の人は必ず成仏を遂げる故に、それを妨げようと三障四魔の働きも盛んになるのです。『治病大小権実違目』に、
 御臨終の御時は御心へ有るべく候              (御書1239頁)
とあるように魔が競うことを平生から覚悟し、臨終には一切その身を御本尊様に託し、何事が起こっても動揺せず、只ひたすら強盛の大信力を出だして心中に題目を唱え、臨終正念なさしめ給へと祈念すべきであります。
 最後に妻子従類の嘆きの声、財宝等への執着が臨終正念の妨げとなると御指南です。長きにわたり苦楽をともにしてきた妻や夫に先立たれることは人生で最も悲しいことでありましょう。しかし、最愛の人の成仏がかかる人生の最大事です。その悲しみを強い心で乗り切り、「何事も心配は要りません。日蓮大聖人様がお迎えに来て下さります。ただお題目を唱えましょう」と、速からず遅からず題目を唱えることが肝要です。また、これから死にゆく人は目を開けることや話をすることはできなくても聴覚だけは最後まで残るといいます。ゆえに当人が好むことや嫌がることなど執着のもととなるようなことは一切語らず、題目のみを唱え聞かすことが大切です。日寛上人は、
臨終は勧むる人が肝要也                 (富要3-264頁)
と仰せです。死にゆく家族が正念を忘失することなく成仏を遂げられるよう、私達はそれを扶ける善知識となるよう努めることが肝要です。

臨終時の題目
 日寛上人は、
臨終の一念は百年の行力に勝れたり(中略)少なりと雖も大事を成す(中略)臨終には信力猛利の故に仏力・法力も、ともに弥々顕れ即身成仏するなり
(富要3-268頁)
と、臨終時に全身全霊の大信力を出だして唱える一遍の題目は、百年間の仏道修行より勝れていると仰せです。その故に計り知れない仏力法力を得て即身成仏は疑いないとの御指南です。しかしながら、普段勤行や唱題をせずに懈怠をはじめとした謗法を犯していると、臨終時に断末魔の苦しみや魔の所為によって、是非をわきまえられなくなり、正念を失い、信の一念をもって唱題することは決してできないことを肝に銘じましょう。
 御法主日如上人猊下は、
まさしく、唱題は一生成仏の直道なるが故に、すべからく心を一つにして、自らも唱え、他人をも勧める、すなわち自行化他の信心に励むことが、今生に人間として生まれてきた最善の思い出になる           (大日蓮841号28~29頁)
と仰せです。自行化他にわたる信心修行を弛まずに積み重ね実践した人こそが、
御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし
(御書1361頁)
と仰せの通り、臨終に末法の御本仏・日蓮大聖人の大慈悲に包まれて死の恐れを超越して安楽の境地を得ることができるのです。今生の人生の終焉に清らかなお題目を唱えることができるよう、また家族をはじめとした全ての人々への感謝と人生への充足感に満ちた臨終を迎えることができよう、より一層の信心修行に励んでまいりましょう。